After Mahikari...真光を離れて


真光の教祖岡田光玉、崇教真光、日本軍 (1)




翻訳です。( )内の数字は『大聖主』での該当箇所。最初英語版、次に日本語版でのページを示しました。 (火の鳥phoenix3000)


「この人物について我々は何を知っているのか」を11月に書いて以来、岡田光玉の軍歴についてさらに調べようとして来ました。崇教真光では詳細を明らかにしないので、昭和の時代の日本の戦争の歴史と生活に関する書物を読みました。

普段は戦争に関する書物を読むのは避けます。嫌なのです。広島・長崎に落とされた原爆と、アジアの諸地域で市民や敵軍捕虜を扱った日本軍の非人道的なやり方とを比べて、そのひどさにおいて、どちらのほうが上回るのか、決められないからです。

私が組み手になった時、岡田光玉(良一)に軍人の過去があることを聞いて気持ちに引っかかったのを思い出します。今振り返ってみると、私も人を信じやすかったのだと思いますが、崇教真光も、光玉は実戦には関わらなかったという印象を上手に作り出していましたから、「それなら」と思ったのでした。

種々の真光の出版物によると、光玉は特に自分からそう望んだというよりも、父の死に際の願望を尊重して、陸軍士官学校へ入学しました。 1922年(大正11)に、陸軍士官学校を卒業、宮城守護が役割の、近衛師団歩兵大一聯隊に配属になり、聯隊騎手を命じらた。(『大聖主』P.19/P.60)ここではたいした戦闘行為はなかったでしょう。1931年(昭和6年)、近衛歩兵第一聯隊第六中隊長に任官した後、陸軍歩兵学校教官となった。(P.21/P.62)1931年直前に彼が何をしたのかは言っていませんが、日本は当時すでに中国での「事変」に関わっており、1931年に満州に侵入しています。

『大聖主』によると、1937年(昭和12)、大本営第一鉄道輸送司令部課長となり、「上海作戦、杭州湾作戦、南京攻略の輸送作戦責任者として、活躍された。」とあります。(日本語版p.62)日本軍が杭州湾に侵入している時、「当時、私は、後方鉄道の一部を預かっていた。或る時、高熱のため止むなく、寝台の中に、電話機を引き込んで、指令や連絡に、眠る暇もなかった。」と光玉は記しています。(日本語版P.63)上海の仏蘭西人の聖路加病院にしばらく(どのくらいの期間いたのか記してありません)過ごす。入院中、「今南京の、血みどろの、動の極地にある友軍も、今宵の今は、将に静なるか、動なるか。」と考える。(日本語版P.66)言い換えれば、南京強奪事件には光玉自身は加わらなかったと、崇教真光では回りくどく言っているのです。

しかしながら、さらに読み進むと、光玉は病室で「『今一度だけでも、戦の庭に立たねば』と念じ」ているのです。(日本語版P.66)戦の庭?どの戦場のことでしょうか。光玉が戦場で闘ったということはどこにも述べられていないのに。

健康を回復し、日本に戻った光玉は、1938年(昭和13),御前馬術大会で、障害飛越の際、馬もろ共に転倒し、脊椎骨折をおこし、陸軍病院に三ヶ月入院。(日本語版P.67−8)その後、1941年(昭和16)、「仏印軍司令部付、鉄道輸送責任者として、現地で任務中」病気になり、東京第一陸軍病院に18ヶ月入院。(P.29/P.68)退院し、「陸軍中佐であった師は、現役を退き、予備役編入となった。」(p.31/p.70)

以上です。10年以上に渡ってアジアで日本の侵略があった頃、陸軍に20年程いた光玉はその手を血で染めなかったのでしょうか。光玉は先祖が戦で積んだ罪穢のことは話していますが、自分が戦場で人を殺したという話を特にしていた記憶は私にはありません。しかしながら、2005年6月、コウヤ代理は、その教えの中で、---のちに、救い主様は、強い精神力のおかげで軍を率いることができ、最前線まで行きました。死を面前にして恐れぬヤマト魂の見本でした--- と述べています。これは私には美化された宣伝的なものに聞こえるのですが、光玉が直接戦闘に加わっていたことを示唆するものです。(もちろん、軍部に加われば、誰でもいつかは直接戦闘に巻き込まれたと考えられます。が、正確には光玉は何をしていたのでしょうか。そういう部分がどうして省かれているのでしょうか。)

戦争中と戦争直後の光玉について崇教真光が述べる詳細のなかには、本当とは思えないような節もあります。調査を試みてはいるのですが。上記の概略は本当かもしれません。でも、崇教真光は光玉の軍人歴をきれいごとで済ませたか、存在しない経歴をでっちあげたかしたのではないだろうか、と思わずにはいられないのです。一つには、光玉が行ったのは陸軍士官学校で、もう一つの、エリートが行く陸軍大学には行きませんでした。( 陸軍大学卒業生の名簿あり。)しかし、光玉は1937年に大本営の部課長であったと聞かされています。ちょっと妙な気もするのですが、そうであったのかもしれません。日本の陸軍について私よりも知っている方なら、説明できるかもしれません。

もう一つ奇妙なことは、『大聖主』に、友森清晴が『真光』誌に書いた、光玉についての話の引用があることです。自分は士官学校で光玉の同期生だった、とのことで、あらゆる些細な事柄を広範囲に思い出します。士官学校卒業直後、良一(光玉)の方が階級が上で、「おい、友森、貴様俺の命令を聞かにゃならんなぁ」と言った話をします。(日本語版P.58)これはちょっと変です。というのは、二人は同時に卒業しているからです。それに、特に友森の場合、エリート中のエリートが行く陸軍大学を後に卒業し、結局は良一よりも階級が上になったからです。

一瞥すると、この友森の話は単に光玉を褒め讃えることと、多分、光玉に軍人歴があったことを『裏付け』ようとの意図があったように思われます。どうか誤解しないで下さい。光玉は軍になどいなかったと言っているのではありません。恐らく軍にいたのでしょう。今の段階で言えるのは、光玉及び崇教真光による嘘があれほどたくさんあることが暴露された後では、崇教真光の言うことはすべて疑ってしまう、ということです。日本軍を扱ったウエブサイトに良一の名をまだ見つけられないでいますし、他の人々が日本で行った調査でも、記録が見つかりませんでした。しかしながら、これで崇教真光の公言する光玉の軍人歴が偽だということにはなりません。何らかの理由で様々な軍の記録が差し押さえられているのかもしれません。が、単に光玉の軍人歴は取り立てていうほど重要ではなかったのではないか、という説明も可能です。崇教真光がそれを輝かしいものに見せようとしているのにもかかわらず、です。

しかしながら、『大聖主』に友森の話を載せたことには、もっと邪な理由があったのではないかと今思います。本当の目的は、友森が光玉の終生の、かつ、最も親しい友人であったということを「明示」することだったのではないでしょうか。他の真光の出版物で、友森について読んだ覚えがありません。日本人の名前にあまりなじみがなくて、気が付かなかっただけなのかもしれませんが。ともかく、1983年に日本語版、1993年に英語版が発行された『大聖主』には、友森の名が幾回か出てきます。最初友森の長い話があり、「アナタのお友達の中で、一番アナタを思って下さる、一番立派なお友達でしょう。」(日本語版P.60)という妻の言葉を語りさえします。後に1973年の光玉のヨーロッパ旅行への随行団長として、友森の名が出ます。(P.185/P.205)そして、光玉死亡の際、(P.223−4/P.241−245)「師の長年の友、友森清晴、松平定堯両氏が、師をお呼びしながら、お手をとった。」(日本語版 P.241)とあり、友森の作による光玉の死に関する詩が載っています。

崇教真光が、友森をめぐる、こういった情報を含めたのには特別の理由があったのではないかと思うのはなぜでしょうか。光玉の死後に起こった、後継者をめぐる真光裁判の資料を見てください。(リンクあり)このページの終わりの方に、光玉死亡の直後、恵珠が二代教え主用のおみ霊を関口氏に渡すところだったのを友森が割って入り、「今後は私(友森)に相談なく事を進めてはいけない」と恵珠に要求した、とあります。また、世界真光文明教団の代表役員に恵珠が自らの名を秘かに登記した動きにも友森が関与していたようです。また、後継者問題の論争には恵珠の側の代表になり、裁判では彼女に付き添ったということです。

正確なところは私にもわかりませんが、後継者問題、世界真光文明教団が二つに分かれたこと、究極的には恵珠による新しい教団崇教真光が設立されたこと(1978年)、これらの背後に友森の推進力があったように思われるのです。一年以上前に、この資料を初めて読んだとき、恵珠は表看板の人物であって、友森と多分他の助言者達がいて、彼女に何をすべきか指示していたのではないかと考えざるを得ませんでした。

恐らくご存知のことだと思いますが、裁判所の判決は、恵珠ではなく、関口が世界真光文明教団の正当な二代教え主である、というものでした。多くの文明教団の信者を自分の側につけておくために、恵珠は個々の忠誠心(それと情報の差し押さえ)に相当頼っていたように思われます。恵珠派の重要な助言者だったと思われる友森を、光玉の最も親しい友人だった、と宣伝することにより、恵珠派が自分たちの正当性を主張しようとしたのではないでしょうか。『大聖主』はその格好の機会だったのでしょう。

光玉の軍歴に関する話題の最中なのに、なぜ、友森や後継者問題について書いているのかと思われるかもしれませんが、実はショッキングなことがあるのです。

以前、『大聖主』で読んだ、光玉についての友森の話や光玉の軍人歴に関する情報のことを考えていたとき、友森の名をグーグルで検索してみようと思い立ちました。最初に見つけたのは、後継者問題の真光裁判の資料でした。もちろんこの資料は以前に見ています。 でも、友森の名前は覚えていませんでした。次の2件は これこれでした。自分で読んでみてください。だだし、気の弱い方には、二番目のウェブサイトだけをお勧めします。私自身、気分が悪くなりました。

二番目のサイトを見ただけの人のために説明しておきましょう。油山は福岡市郊外にあり、米軍機搭乗員捕虜達を非公式に、残酷に処刑した事件と、もう一件の事件があった場所です。

手短に言えば、友森清晴は戦犯として有罪判決を受けました。最初は死刑を言い渡されましたが、再審で終身刑に減刑され、東京巣鴨の監獄に入っていました。いつ仮出所になったのか正確なところはわかりませんが、巣鴨にいた戦犯は1952年から1958年(巣鴨プリズン閉鎖)の間に、全員仮釈放されました。ですから、1959年光玉が自分の宗教を始める時までには、彼の良き友であった友森は監獄から出ていて、光玉の教団に入信したことは可能です。いや、その設立に主導的役割さえ果たしたとも考えられます。いずれにしても、私達が属した恵珠派において、背後で実権を振るっていたようです。気分の悪さは倍加してしまいます。



最初 上記の情報に出くわしたのは二ヶ月前ですが、同じ名前の人物が軍部に二人いたのかもしれない、と思いました。光玉の友人と戦犯は同一人物ではないかもしれないと。まず、それを確かめたいと思いました。英語と日本語でのウェブサイトを幾つも相互参照した結果、戦犯の友森は真光の友森である、と示すことができます。次のポストで扱いたいと思います。

追記:罪のない人を中傷したくありません。もし、ここに書いたことに、間違いがあるという証拠が崇教真光側にあるならば、どうか私に知らせて下さい。喜んで訂正文を載せます。
Japanese
Last updated : 7 May 2007