After Mahikari...真光を離れて

真光の祖師が受け取ったとする『最初の啓示』ー  その九;「手をかざせ」の挿入(脱落?)


かなり以前のことですが、初級研修中に、講師が『最初の啓示』に言及した折り、受講生の一人が突然コメントをしました。講義中は講師からの一方通行なので、異例でした。そのコメントというのが、「この『御聖言』には『起て、光玉と名のれ。厳しき世となるべし。』とあって、『手をかざせ』の部分はないのだが」というものでした。今思い返してみると、その男性はたまたま道場備え付けの旧版の『御聖言』を参照していたのでしょう。

講師は、「『最初の啓示』は『起て、光玉と名のれ。手をかざせ。厳しき世となるべし。』です。」と繰り返し、それだけでした。

「本当だ、抜けていますね」とも、「何かの間違いでしょう」とも言わなかったことを変に感じたことを思い出します。しかし、恥ずかしいことに、その時は「真光の教えをもっとよく知りたい」という思いでいたので、意識の奥で変だなと感じながらも、私の注意は講師の話だけに戻って行ったのでした。

これも都合の悪い現実の事実は見ずに疑問を素通りしていく真光の体質を示す、ほんの一例だったとも言えるでしょう。

昨年(2006年)4月に『御聖言』(携帯用)第三版には「手をかざせ」がないことが確認されましたが、〔注1〕 今度、アンさんを通して、初版にも「手をかざせ」がないことが確認されました。アンさんのポストにこの初版(1970年版)と第四版?(あるいは崇教真光の初版と言うべきでしょうか)との比較画像(ここ)があることに気付いた方がいらっしゃいます。

 なぜ、岡田光玉がまだ生存している昭和44年時点の「御聖言」には「手をかざせ」が無く、分裂後の発行と思われる「崇教真光版」の「御聖言」には「手をかざせ」があるのか。文明教団でも、現在の「御聖言」には、「手をかざせ」の記述があるとのことなので、崇教、文明共に、なぜ教祖存命時には「手をかざせ」がなく、教祖の死後、しかも分裂後にどちらの教団にもこの一文が挿入されたのか、この事実の理由を説明する義務があるといえるでしょう。ーー真光関係者集合(48)- 42

昭和34(1959)年2月27日の『最初の啓示』は、それによって立教と手かざしを始めた、と言う岡田光玉(良一)の重大な拠り所(と言っても本人が主張するだけのことですが)でもあります。しかも光玉は自分の言うことは「一言一句間違えずに」伝えよ、と言っています。〔注2〕 当然光玉自身が『神』より聞いたことを忠実に伝え、書き残していなければなりません。そして彼に続く教団も光玉の言葉を勝手にいつの間にか書き換えたりせずに、そのまま忠実に伝える義務があるはずです。 

『最初の手かざし(=犬への手かざし)』の件でも、光玉自身の表現によると、1959年の『最初の啓示』の後になっているのに、『崇教真光30年史』では戦後間もなくのことになっていて、事実ならあり得ない矛盾を浮き彫りにしています。〔注3〕それに加えて、「一にも、二にも、三にも手かざし」と手かざしを強調する真光において最も重要なこの「手をかざせ」の一文が、『神の言葉』であるはずの元々の『最初の啓示』にあったのか、なかったのか、疑問が起きてしまうとは、本末転倒です。何が何でも真光を守ろうとする信者にはそういった矛盾とその意味が認識できないようですが。

昭和34年2月27日午前5時の時点(この日付も、良一の主張に基づいたものです〔注4〕)で「手をかざせ」が元々の『最初の啓示』に含まれていた<1>、いなかった<2>、この二つのどちらかでしかありません。それぞれの可能性を考えてみましょう。もっとも光玉の主張する『神示』自体が作り話だったと見なすのが一番簡潔明瞭な結論ではあるのですが..。

<1> 元々の『最初の啓示』に含まれていたが、

(ア)印刷時のミスで、脱落した。1973年かそれ以降のある時点までそれに気付かなかった。
(イ)何らかの理由で、光玉はこの一文を入れなかった。その後その理由がずっと有効だったのか、または入れなかったことを忘れてしまった。


<2> 元々の『最初の啓示』に含まれていなかった。
(カ)『御対談集』にそれを示唆する光玉の表現がある。〔注5〕 それによると、光玉の『神』は「光玉と名のれ。厳しき世となるべし。」と言ってから、間を置いて「手をかざせ」と付け加えている。時期がずれるのであるが、光玉の頭のなかでは一緒くたになっていて、時期を区別するだけの認識が欠けていたか、『神の言葉』は『地上代行者』である自分の思いのままになる、と思った。
(キ)光玉の『神』が後で考え直し、「手をかざせ」の一文を『光玉と名のれ。厳しき世になるべし』の間に挿入して説くように光玉に命じた。
(ク)『最初の啓示』についてしゃべっているうちに、光玉は「手をかざせ」をどこかに入れる必要を感じ、語調がいいので『光玉と名のれ。厳しき世になるべし』の間に割り込ませるようになった。
(ケ)光玉の話を聞いているうちに、側近が「手をかざせ」を『光玉と名のれ。厳しき世になるべし』の間に割り込ませた。


想像力を働かせて、それらしく聞こえる説明を他にも考え出せる方はどうぞこのリストに付け加えてみて下さい。

さて、どれがもっともらしく聞こえるでしょうか。   

もし、『神の直接の言葉』であるはずの『御聖言』の元々の『最初の啓示』には「手をかざせ」が含まれていなかった、あとで『人知』で付け加えられたとしたら、私達組み手が手かざしに数千時間費やしたのは、あれは一体何だったのか...アンさんが指摘するように、深刻な疑問を生じさせることになるかもしれませんね。また、もし『神』が、重要なはずの自分の言葉にいつの間にか修正・追加を施した、というのであれば、この神は自分の都合に合わせて、いくらでも人をごまかすことができるということになりませんか。そしてそのような神を戴く教団も信頼できるのか、という問題に発展していきます。

元々の『最初の啓示』に含まれていたのなら、(イ)の場合、光玉が『神の言葉』をス直に伝えているとは言えなくなります。(ア)の印刷時のミスで落ちたというのが最も簡単な説明です。しかし、これさえも深刻な問題が出てきます。これは『神』が光玉に語ったはずの言葉であり、一言一句もおろそかにできないはずです。教え主である自分の言葉は一言一句間違えずに伝えよ、と言った光玉自身も、その側近も気付かなかったのでしょうか。非常に大事なことなのに、しかも、『天地創造のス神の地上代行者』であると自称する者と、そのスの神の『霊団』であると自負する輩が、最も大事な言葉の欠落に「気が付かなかった」とか「忘れてしまった」とか、そんなことが許されるのでしょうか。また、真光の教えでは偶然はないことになっています。それなら、この出来事をどう解釈すべきなのでしょうか。どういう言い訳を考え出せるのでしょうか。

「とんでも類の話はカチンカチンの取り巻きが話を大きくした。教団設立中光玉は忙しかったので、確認できなかったのだろう。」というような擁護派の言い訳を時々見かけます。「手かざし」は真光の最も重要な活動です。その基となる「手をかざせ」を擁護派がとんでも類に含めるわけにはいかないでしょう。それに、『御聖言』初版発行の昭和45年と言えば、立教後11年も経っています。立教時の忙しさというのも当てはまりません。〔注6〕

1970年の『御聖言』の初版から少なくとも第三版(1973年)まで、「手をかざせ」が『最初の啓示』に入っていなかった、この現実の事実を頭の中に入れて、『御対談集』の次の部分を読んでみて下さい。

それで、これを最も簡単な方法で、理論とか実験じゃなくて、すぐお互いが体得できる方法はないか、というのが大変な問題になったときに幸いなる哉、”求めよ然らば与えられん”で、神に通じるようになって、神から教えられたわけです。それが『御聖言』(荘厳な本である。これを机の前に広げながら・・・・)にも出ております「光玉と名のれ、手をかざせ」の一言なんです。『御聖言』は私と神との会話を現代語に訳しましたものを、まとめて出版させました。それでこの業が始まったんですよ。 ーー『御対談集』p223


手かざしが始まった過程を光玉が話しています。手かざしは救世教で以前に学んで実践していて、その手かざしを「真光の業」と言い換えた、などといった現実面は一切言いません。他宗教を研究した結果見つけたものである、とも言いません。『神』だけを引き合いに出しています。手かざしは『神』から教えられたもので、昭和34年の『最初の啓示』で「手かざし」を初めて知った、という光玉自身の描く「光玉像」がここにもうかがえます。〔注7〕 そしてもちろん、「光玉と名のれ」は、その時『神』より『光玉』の名を与えられたということであり、救世教時代に周囲の者に自分を「光玉先生」と呼ばせていたという事実は無視しています。

この時の対談者は藤田義郎(政治評論家)となっています。日付は昭和45年1月です。『御聖言』の初版が出たばかりの時です。その本(「荘厳な本である」と言っているのは誰なのか不明です)を「机の前に広げて」、その『御聖言』に「光玉と名のれ、手をかざせ」とある、と言っているわけです。もうおわかりのように、初版には「手をかざせ」がありませんでした。にもかかわらず、それを開けて見ている、という場面です。光玉は「手をかざせ」が無いことに気付いていないのです。

光玉は「・・・の一言なんです」と言っているのに、「光玉と名のれ」と「手をかざせ」の二つを出しています。「手をかざせ」というのは編集時に側近が付け加えたものでしょうか。否、それは不可です。光玉は「手かざし」のことを話しているのです。「『御聖言』にも出ております『光玉と名のれ』の一言なんです。」では前後の文脈が成立しません。

何が光玉をして気付かないようにしているのでしょうか。彼の傲慢による思い込みでしょうか。無いものもあると思う先入観でしょうか。先入観による思い違いは私達一般人には誰しも時々起きることではありますが、仮にも彼は『神の地上代行者』を名乗っているのです。それなりの責任があるはずです。『神』が自分を選んだとの設定にしていますが、『選ばれた方の自分』に責任は無い、とは言えないでしょう。

では、ここでの光玉の責任とは何でしょうか。起こった事の成り行きを忠実に伝えることではないでしょうか。

「光玉と神との会話を現代語に訳す」と、その出版本の『御聖言』では「手をかざせ」がなく、口頭では現れる、とはどういうことなのでしょうか。ついでながら、『御聖言』は光玉の『神』が一方的に語った形式です。その形式を無視して、『会話』と表現したのは、自分と神とはツウツウであると印象付けたかったからなのでしょうが、『御聖言』はどうひっくり返して見ても「光玉と神の会話」ではありません。

『最初の啓示』はイメージで訴え、響きの良さがあるとは思いますが、これも印象付けのためでしょう。現実の事実と比べると、重大な矛盾が含まれています。それに加えて、「手をかざせ」の部分にまつわる新たな疑問が生じ、それを追求すると、もっと疑問が出て来る、というのでは、『神の言葉』に忠実であるべき光玉の責任意識は全く認められません。「手をかざせ」を後で付け加えようが、「光玉と名のれ。厳しき世となるべし」の間に割り入れようが、光玉の頭の中では同じことだったようです。なぜでしょうか。『神』が光玉に語りかけ、命じている形を採っているけれど、第三者が発したものというより、光玉自身の頭の中で作られていったものだったからではないでしょうか。それと、自分の言葉は『神の言葉』であるから、自分の思いのままになる、と思っていた一種の傲慢さがあったのではないでしょうか。


〔注1〕アンさんのブログ、2006年4月10日の短い記事。『御聖言』(携帯用)の出版詳細あり。(ここ)

〔注2〕中級真光研修用テキスト(1970−80年代の頃...真光関係の印刷・出版物には発行年月日が示されていないものがある)に次の記述がある。


参考資料4..幹部とは(その意義と使命)

この「み教え」は昭和四十二年三月十四日、元み魂座において行なわれました。第四回上級研修受講修了者である幹部及び幹部候補生の御み霊昇格式の席上、昇級幹部に御教示賜ったものを、特にお許しをいただき、その要点をプリント致したものです。
「幹部たる者、良く吟味して以て各々の血となし、肉となして教線拡大の一大神業に邁進せよ」とのことでありました。(文責在記者) ーーp 47

...要は教え主からの「み教え」「み業」「想念の持ち方」等々を正確に(一言一句間違えずに、即ち私がよく言う「全般にオウム返しの出来るもの」に)吸い上げ伝送し、..ーーp48


〔注3〕「真光と犬の話」「真光の祖師が受け取ったとする『最初の啓示』について」<その一><その三>参照。

〔注4〕『奇しくも神が自分の誕生日を選んだ』と暗に示唆しているが、実際には良一本人がそういう効果を計算して自分の誕生日を選んだのであろう。

〔注5〕「真光と犬の話」「真光の祖師が受け取ったとする『最初の啓示』について」<その一><その三>、特に『御対談集』p280−281/286、『30年史』p66の引用部分参照。

〔注6〕『立教時』というのが1959年からいつまでを考えているのか明確ではないが、3年間ぐらいの1962(昭和37)年頃までとひとまずしておこう。光玉が世界真光文明教団を設立して最初の出版物は『真光』ということになる。『大聖主』の中の『真光』誌に関しての記述を見ると、忙しい最中にも出版物への光玉の熱意があったことが描かれている。ここに描かれた熱意が、一時的で気紛れ的なものではなかったのならば、「教団設立中忙しかったので、光玉は確認できなかったのだろう」という言い訳は通用しない。「苦し紛れの言い訳」と批判派に言われても仕方ないのである。

『真光』誌 立教以来、教団のニュースは、宗教新聞「聖和」で報道されていたが、何かと不便であり、機関誌の必要があった。そこで、昭和三十七年七月、新聞型の『真光』が発刊された。
昭和三十八年一月の七号から、雑誌型となった。発行所は、元み魂座、L・H陽光子友乃会真光新報である。
...(省略)...
 ...第一号発刊の時には、インキで汚れた印刷所へ、師と恵珠様がお出かけになって、校正の赤ペンを取られた。 ーー『大聖主』p91−92/ほぼ同じ文が『崇教真光30年史』p84にもある。


光玉が印刷所に出かけて行って、校正の赤ペンを取ったという話は光玉の出版物に対する熱意を示す逸話として感じられる。光玉がいかに『真光』の出版を大事にしたか、その熱意が語っている、というわけである。つまり、その熱意の勢いが続いたかのように聞こえて来る。再度読むと、印刷所に行って校正の赤ペンを取った、とあるのは第一号発刊の時だけである。ということは、光玉がそのように行動したのは、第一号発刊の時だけで、それ以降はインクで汚れた印刷所には行かなかったということになるのだろうか。それとも、第一号発刊の時の熱意は当然第二号以降も続いたのだ、と付加的想定をするのが、真光においては期待されることなのか。ここでも事実関係が曖昧である。曖昧のまま、その一回の行動で、光玉が出版にいかに熱心であったか、立派な教祖像を描くよう誘導されていく。一見現実の出来事を述べているようでいて、実は現実から遊離した世界へ踏み込んで行く。でも信者はそれに気付かない。それに気付かないまま、その実体のない世界が現実世界の奥にある『霊的』世界だと思わされてしまうのではないのだろうか。

〔注7〕「真光の祖師が受け取ったとする『最初の啓示』について」<その一><その三><その四>参照。



ーー火の鳥Phoenix3000

Japanese
Last updated : 28 April 2007